広島国際映画祭 HIROSHIMA INTERNATIONAL FILM FESTIVAL

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Retrospective Henri Langloisアンリ・ラングロワ特集

アンリ・ラングロワ、広島に甦る
岡田秀則

1958年、マルグリット・デュラスの小説『ヒロシマ私の恋人』を映画化すべく初めて日本を訪れた監督アラン・レネは、主演女優エマニュエル・リヴァの相手役となる日本人男優を捜していた。何人かの候補が挙がり、その中には岡田英次の名もあった。彼がどんな演技をするのか知りたがったレネは、彼の過去の出演作を観ようとしたが、なかなかフィルムに出会うことができない。結局、映画館を探し回って事なきを得たようだが、彼は本国のデュラスにこんな手紙を書いた。「日本では、映画フィルムを保存することはしないようです。だから昔の映画を上映するのはとても難しいのです」。残念ながらその指摘は当たっていた。その時レネの念頭にあったのは、間違いなく、祖国にある映画の保存機関シネマテーク・フランセーズと、その神話的創立者アンリ・ラングロワだったはずである。
 ラングロワは、その生涯を、映画を観、ひたすら集め、それを上映して仲間と共有することに捧げた。公開を終え、もはや利潤を生まなくなったフィルムを製作者からもらい受け、実家の空間をフィルムだらけにしたという。やがて、彼の熱情を知った世界の映画人が彼にフィルムを引き渡し始める。チャーリー・チャップリンもその一人である。
 1936年、彼の生き様そのものといえる組織シネマテーク・フランセーズがついに誕生する。映画保存どころではなかった大戦期を抜けると、彼は再び熱心に上映会を組織した。いつも集まってくる若者たちは、やがて映画批評を書き、映画作りに乗り出す。撮影所での修業経験がなくても、シネマテークでひたすら眼を磨いた彼らは新しい映画芸術を開拓した。「ヌーヴェルヴァーグ」の誕生である。
強調しておきたいのは、いくら網羅的に映画を集めるとはいっても、シネマテークは国の事業ではなく、あくまでラングロワの私設団体だったという点だ。フランス政府はその国有化を狙い始め、1968年にはラングロワの解任を迫ったが、それをはね返したのは何よりも彼を支持する映画ファンだった。この「ラングロワ事件」が、フランスを揺るがした「五月革命」の前哨戦だったことは、いまやフランス現代史の定説である。
 そんなわけで、彼には熱烈な支持者も多かったが、敵も多かった。敵は敵で間違っている訳ではない。理想主義者ラングロワはすべての物事をほぼひとりで把握しようとし、シネマテークの運営は大雑把であったという。世界に一本しかない貴重なフィルムでも平然と映写してしまう。1959年には火災を起こして多くのコレクションを失っている。その結果、かつて米英独の映画保存関係者とともに設立した国際フィルム・アーカイヴ連盟からも脱退せざるを得なくなった。フランスほどの映画大国であれば、よりシステマティックな映画アーカイヴが求められるのも当然だ。
 それでも、彼は映画や、それにまつわる品々をむさぼり続けた。「ラングロワ事件」を乗り越え、1972年にはついに念願の「映画博物館」を開館する。その生涯を貫いた苛烈な精神は、保存事業と上映事業のバランスに気を遣うようになった現在のシネマテークにも受け継がれている。
アラン・レネが広島に足を踏み入れてから、半世紀以上の月日が経った。だが引き続き広島は、記憶の風化にとりわけ強く抵抗しなければならない都市であり続けている。現在の日本には、国立の映画保存所である東京国立近代美術館フィルムセンターがあるし、広島市民も映像文化ライブラリーのコレクションを誇ることができる。そこに突如現れたこの先駆者、「映画遺産のカリスマ」を迎え入れることは、単に歴史の一挿話を拝聴することではない。それは、すべての映画に分け隔てないパッションが注げるかという私たち自身への挑戦であり、また、記憶の継承という私たちの終わりなき宿題に対する鮮烈なリマインドの試みである。死してからも、彼は私たちを扇動しないではいられない。